世界の作り方

世界が自分を作った。それは自明の理である。が、目に映る世界は世界として存在しているのか? 本当は、自己が捏造しているのではないか? ならば、自分で世界を作りかえる。
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かしまし~ガール・ミーツ・ガール 5 (5)

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 性愛というものについて考えてみたい。
 我々は何の疑いもなく、異性に恋情を抱き、同性に友情を思う。一見これは動物である以上仕方のない、遺伝子に埋め込まれたプログラムのように見える。繁殖して増えなければ滅びる事は自明であるからだ。
 だがしかし、遺伝子は種を守る気などさらさらない。遺伝子が守るのは、自分と自分の複製されたコピーだけである。つまり増えるだけなら恋というややこしくて面倒くさいプロセスを経る必要などなく、ただ単純に犯せばいい。幸か不幸か、我々に発情期なるものはない

 つまり、この人間関係の構築と展開、そして永続性をもたらそうと努力する判断は、遺伝子決定ではなく、模倣子決定なのである。
 情けは人の為ならずということわざは、最も誤解されやすいことわざではあるが、人の為に何かしたい、関係を壊したくないと思う利他精神は、結局利己である。我々は連綿と受け継いできた模倣子にのっとった形で模倣したいと望むのである。
 恋愛をして、子共に自分の模倣子を模倣させたいのである。であるからこそ養子縁組制度なるものを立て、学校に子供を押し詰め、空気を読むのである。
 故に、同性に恋をするのは、はっきり言って異常と言える。それは遺伝子のコピーは疎か、模倣子判断からも逸脱した行為であるからである。

 この物語は宇宙船の衝突事故によって命を絶たれた少年、はずむ君が、宇宙人の超科学によって命をつなぎ止めたのはいいが、何の因果か性別を転換され、女の子になってしまう話である。
 通常ならば、悲劇として男に戻る道を探すのであるが、この物語ではそんなそぶりは一切なく、そのまま最後まで女の子として完結する。
 と言って女の子になった少年が男に恋をするわけではない。我々は遺伝子や染色体に心理を支配されているわけではない。
 感覚レベル模倣子共有圏内(文化圏)であっても最大公約数的にカテゴライズしてくと、最終的にXXとXYの二つの模倣子に分けられる。つまり、男と女の模倣子である。その男の模倣子を保持しているはずむ君が男に恋をするわけがない。(普遍性のレベルにおいて)

 プラトンはなぜ少年愛を至上のアガペ(愛)として礼賛したか。
 それはリビド(性欲から喚起されていると思いこんでいる心理行動)の迷妄から抜け出し、理性的な愛を模索する姿勢であるからだ。
 女性ならいざ知らず、男性の少年愛はフェティシズム的に変態である。(模倣子から変異し、普遍性の無いレベルとして)が、これをフェティシズム(性倒錯)ではなく、アガペであるとすると、リビドを一切含まない、純粋美的エロスへと昇華するのである。
 つまり少年愛は、思想としての愛なのである。

 この物語の主人公であるはずむ少年は実に愛らしい。が、彼は元々男の子である。その子が女の子に恋をして恋愛をはぐくんでいく姿を見て、今自分は男の子を愛しているのか、女の子を愛しているのか苦悶していただきたい。
 まぁこれは極まった人間の見方かも知れないが。
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